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『天気の子』の感想:セカイ系、ボーイミーツガール、ミュージックビデオの新海誠屋の最新作を観て【ネタバレ】

7/19日公開、新海誠監督最新作、天気の子を本日20日に観てきた。
例によってネタバレに一切配慮せず、個人的に書きたいままを書く。
未視聴の人は『絶対に』この先を読んではいけない。

tenkinoko.com

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まず、『天気の子』はどういう映画だったかというと、新海誠監督の前作『君の名は。』と同程度にセカイ系で、ボーイミーツガールで、映像と音楽を巧みに練り上げたミュージックビデオ的作品である。『君の名は。』以前の新海誠と言えばビターエンドというかやや「外した」話ばかりで、コアなファンはいるもののそれはオタクに限られる、という印象だった。その視点から言えば、『天気の子』は『君の名は。』の真っ当な後継作であり、監督本人がインタビューやパンフレットで語るように『君の名は。』のいわばアンサーでもあった。
パンフレットで監督の語りの一部をまとめると、『君の名は。』で隕石衝突による大惨事を無かったことにしたストーリーは過去の改変であり、それは許しがたいものだと怒っていた勢力があるらしい。怒るポイントは人それぞれとはいうが、個人的には何に憤ってるやら全くの意味不明である。しかし、そういった感情的なリアクションに対して、自分の描きたいものが潜んでいるかもしれないと感じ、作ったのが『天気の子』であるそうだ。この点がどう『天気の子』で描かれたかを書いてみよう。

社会と反社会、大人と子供、セカイ系

本項の見出しとした「社会と反社会、大人と子供」は、『天気の子』で描かれる対立構造であり、前側の社会・大人が「セカイ系」の主役たる反社会・子供の敵として現れる。主役の帆高は子供かつ反社会の存在で、その2つの概念を満足する「家出少年」となっている。僻地の地元社会が息苦しいと感じ、東京に飛び出してきて社会の隙間のような場所で一応の自立生活を送ることが満足であるという人物だ。また、もう一人の主役の陽菜は、弟の凪との二人暮らしのため、子供側ながら全うとはいい難い社会の一部に身を置こうとしていた。これは後で出る「人柱」的な選択をしがちな性格を表している。
この二人が出会い、予告編のモノローグで言われる「世界を変えてしまった」仕事で、地元の学校や公的なセーフネットといった社会に依らない、自立した自分たちだけの生き方が出来る事を一つの成功と感じている。この「世界改変」によって自分たちなりの幸福を掴んだシーンまでは『君の名は。』のストーリーの踏襲であろう。

しかし喜びもつかの間、陽菜の力は天気の巫女と呼ばれていたもので、つまるところは人柱として天気の安定をもたらし、社会の発展を司るものであると明かされる。そして、3年後の東京は、おそらく過去の天気の巫女達が人柱になったおかげで築かれた大都市が崩壊したことを如実に表すものだった。これは、社会の人柱となって生きる事を否定する決断で、ここがこの作品のアンサーであったのだろうと思われる。社会のための「世界改変」は許すのか? それに伴う犠牲、人柱は許すのか? 否! というものだろうか。登場人物の一人、大人である須賀のセリフに特にそれが表れている。「人柱一人で雨が止むのなら皆それを選択する」と。
そして陽菜自身も社会のために人柱となってしまった。帆高が反社会の子供として劇中繰り広げるのは、大人の視点からするととんでもないシーンの連続であり、一体どれほどの法に抵触したのかというレベルでビビる。しかし「既存の社会を維持するための責任を何もやってこなかった子供に負わせて人柱とするのか」 という視点からすると、帆高の怒りは真っ当な行動原理として読み解ける。帆高は社会と大人を否定する子供なのだ。

最後は「人柱」を否定して生きることを「大丈夫」と締めくくって終わる。この世界が狂っていなかった事など、たかが天気の観測史程度の浅い歴史しかないものだと。社会の何かがおかしくなっていると感じるその感覚は、天気の巫女の人柱で発展した東京が再び水没するような事態を恐れるようなもので、かつてあった世界に回帰しても人々はなんとかやっていけると『天気の子』は言っている。こうしてみると、『天気の子』はある種の人間賛歌だったのだろう。

須賀という男

作中で結構重要な動きをする男、須賀。CVが小栗旬で、また俳優をあてたのかと反発を招く間もなく、良すぎる声と演技で小栗旬ファンが爆増したものと思われる。かくいう俺も手の平グルングルン側だった。
須賀は大人側の人間である。どうにか社会と折り合いをつけて生きる、観る側の大人にとってはもっとも近いキャラクターの一人だ。彼の仕事は怪しげなオカルト雑誌への寄稿だが、それとて発する側も受ける側も分かった上で楽しんでいるとのたまい、社会の中での生き方を穂高に体現してみせる役割を担っている。帆高を拾って仕事を与え、いざ自身に累が及ぶ段になれば手切れ金を払って切り捨てる、しかし結局廃ビルにまで出かけてしまい、かつての自分と同じようなガキの帆高を何とか社会に引き戻そうとする…と、フィクション的ではあるが何とも親しみやすい。最も大切にする娘のためにタバコをやめるが、帆高を放り出した夜は吸ってしまっているなど、本作では社会=大人であるが、その象徴であるタバコが逆に社会との決別を示す描かれ方が面白い。

その須賀がクライマックスで帆高を助けたシーン。いきなりどうした!?って最初は思った。銃を向け合う帆高と警察の間に立ち、どうにかなだめようとする大人の須賀が突然の乱心である。これについてだが、自分なりに考えた回答を書いてみる。この前の夜のシーンで「大人は物事の優先順位が変えられない」と須賀本人が言っている。須賀の第一位はもちろん娘だが、警察に敵対すると娘の親権獲得は遠のく。だったらなぜか。これは、妻がもう二度と会えない事が、娘と引き離されて生きる事が、陽菜と会えない帆高の叫びによって想起され、砕けた言い方なら熱に中てられて、子供に戻ってしまったのだろうと考えた。大人なら妻が死んでも堪えられるし、娘と別れて暮らす事も甘受できる。大人の須賀なら出来ていた事だが、公園で遊ぶシーンの夏美のセリフにあるように、実は須賀とてギリギリだったのだろう。反社会の究極、銃刀法違反の象徴の拳銃の発砲音は須賀を子供に引き戻した。結果として子供の帆高を助けて、もしかすると娘との距離は離れてしまったのかもしれない。3年後では普通に会えているようだが、それは小奇麗なオフィスを構えるまでに大人をやりとげた須賀の努力によるものだろうか。結局須賀は大人の側に戻ったが、それでも帆高を後押しする立場であり、逆に言えば3年後の帆高もそれとなく大人側になって、だから「青年」と呼ばれたのだろうか。この辺りは小説版に書かれているかも知れないのでそちらを確認したい。

君の名は。の人物

ここまでは真面目くさった感じに書いたけど本項は『君の名は。』ファンボーイとして書く。
いやめっちゃ出るやん? 瀧君なんかほぼメインキャラやぞ。実家まで出るし。三葉も組紐までガッツリ出るし。そしてこの二人が再開した『君の名は。』のあのシーンが晴れてたことからすると、『天気の子』時点ではすでに再会してるんじゃないかと。さらに三葉の店を帆高に紹介したのは瀧君じゃないのかまで考えられる。三葉の名札が宮水のままだったから結婚はしてないようだが。もし名札が立花だったら劇場で失禁してたかもしれない。
あとてっしーとさやちんは後ろ姿で分かったけど四葉はわからんかった。もう一回は劇場に行かなくてはならない。ごっついファンサやでほんま。

まとめ

『天気の子』視聴直後の感想をまとめて書いた。まあ正直、万人受けかというとやっぱ受け付けない層はいると思う。あれこれ矛盾を掘り返して腐す輩もいるだろう。しかし映像美と音楽をセットでぶつけてくるメソッドは相変わらず強いし、空から降るシーンは意志と無関係に涙腺がぶっ壊れた。これからは小説版買って読んで考察を読み漁って色んな人の色んな受け取り方を吟味した上で再度、いやさ再々度の視聴に向かいたい。『天気の子』良かったです。