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【FF14】漆黒のヴィランズにおける冒険者の想いを書く(5.0メインストーリー感想)【ネタバレ】

6月28日に始まったファイナルファンタジー14(以下、FF14)漆黒のヴィランズのアーリーアクセス。一日10数時間プレイの生活スタイルでメインストーリーを7月1日に終えたので、新生から漆黒までのストーリーの簡単な感想と、それらを通してムービーなどで描かれる表情、動き、提示される選択肢などから、プレイヤーキャラがいかにその世界を生き、どう感じ、どう考えが変わっていったのかを書いてみたい。なおこれはあくまで個人的な解釈であり、俺自身の操作するプレイヤーキャラがそう考えただろうというロールプレイ的な話でもあるので、解釈違いはあろうかと思う。読む上でその点もご理解いただきたい。

また、当然ながら漆黒は元よりそれ以前のネタバレにも一切配慮せず、個人的に書きたいままを書くので、未クリアの人は『絶対に』この先を読んではいけない。

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まず、ストーリー自体の感想の結論は、多くの人がそうであろうように『今までで最高だった!』なのだが、漆黒でそこに至るまでの経緯を新生FF14から書いていこう。なぜ新生からかというと、SNS上でも言われているが、漆黒のヴィランズは新生エオルゼアから(もっと言えばその新生前の旧版から)の6年間の積み上げをして名作たるものだからである。

拡張の感想

新生エオルゼア

俺は新生FF14アーリーアクセスからのプレイヤーで、そこから蒼天→紅蓮→漆黒とリアルタイムで追いかけてきた。個人的に、新生時代のFF14は、言い方は悪いがストーリーが地に足についておらず、正直なところコンテンツを開放するための大規模なフレーバーのようなものだった。それはあの悪評極まる旧版FF14を一旦ご破算にして、ひとまず破綻のないように新たな世界を作りなおしたことに起因するもので、世界の説明に終始する物が多かったように思う。メタ的にも、制作側とプレイヤー側がFF14というゲームをどう楽しませる/楽しむのかのお約束が確立しきってなかった事が挙げられるだろう。

蒼天のイシュガルド

蒼天のイシュガルドは、いわば旧版の負債というしがらみから大きく解放されたキャラクター達が初めて動き出した物語だったと思う。アルフィノが特に顕著だが、暁の他のメンバーも『その他大勢であの石の家になんとなく詰めてる奴ら』からアレコレとキャラ立ちが始まる。最近になって開発から名称が明かされた「ヒントテキスト」が面白いとプレイヤー側がわかり始めたのも蒼天の旅からであったと思う。紅蓮や漆黒にあるお約束の確立も蒼天からのものが多い、という気がする。

紅蓮のリベレーター

紅蓮では世界の端と端で支配層である帝国との戦闘が大きく動いた。プレイヤーキャラは世界の東西を飛び回って現地の人をたらし込み、顔を売っていくことになる。アジムステップの連中のように、部族の文化・掟に殉じる人々との出会い、はびこる帝国との戦い、紅蓮はエオルゼア一地方にとどまらない世界の説明のために位置づけられていたのだろう。

漆黒のヴィラン

そして、このほど発表された漆黒であるが、新生から紅蓮までを通して撒いてきた種が育ち、張られた伏線を大いに収穫した拡張だった。紅蓮までに描かれてきたキャラクター達は自身のそれまでの生き様を嘘にしないために動く。第一世界に先行して来ている暁のメンバーは第八霊災を防ぐ事に尽力していくが、旅路の中で語られる彼らの心境はそこに至った背景を強く反映し、成長やキャラクターとしての厚みを感じさせる。また、アシエンの一翼、エメトセルクは暁の活動を見定めるために折々に現れる。常に仮面をかぶり、暗躍を身上とするアシエンらしからぬ距離感で、世界の成り立ちを惜しみなく詳らかにしていくのみならず秘めた己の本音すら吐露する。その道中を積み重ねた上での最終盤のアルフィノとエメトセルクのやり合いは、ゲームをしてこれを語るかというほど強烈で熱く、その直後の最終決戦は演出も含めFF14にしかできないものだっただろう。まさにFF14最高のストーリーだった。

プレイヤーキャラの想いの変遷

新生エオルゼア

さて、新生においてエオルゼアに登場したプレイヤーキャラは、困っている人を助けて日銭を得る冒険者として生きることを心に定めた人物だった。力に秀でていたことで、周囲からいいように使われてきた側面もあるが、蛮神や帝国との戦いに喜びを見出していたし、暁の武力としてその立場を楽しんでいたとも言える。超える力の判明もあり、暁の活動は自身の才能を活かせる居場所として、趣味と実益を兼ねた生業だった、と思える。新生の最後で暁が崩壊した時も、面倒事になったと思いつつ、あたかも街中の小さいクエストのように、困っている人を助ける程度の考えでアルフィノ達と同行したのだろう。

蒼天のイシュガルド

そして蒼天においてイシュガルドの動乱を治めた者として、プレイヤーキャラは『英雄』と広く呼ばれるようになった。プレイヤーキャラはこの『英雄と呼ばれること』がオルシュファンの最期と重なり、重荷のように感じていたように思う。英雄と呼ぶのは構わないし、好きに利用するのも止めないが、自身でそう主張はしないし、立場にふさわしい振る舞いを意識することもしない…。つまり、未だに本質的には暁の武力という立ち位置を上手く利用する”いち冒険者”でしかなかった。ただ、新生の最後から蒼天にかけてのオルシュファンの手助けには恩義を感じ、それを裏切ることはすまいと思っていた。それに加え、オルシュファンの守ろうとしたイシュガルドとそこに住まう人々へは惜しみなく手助けをしようと考えていた。二度も救われた恩はここで返そうと。

紅蓮のリベレーター

紅蓮に入り、プレイヤーキャラは世界を股にかけて盛大にお使いをしていたわけだが、本来的に冒険者であるため、旅路は大いに楽しんでいたのだろう。道中はあくまでもクエスト同様に困った人の手助けであり、冒険者としての生き方が全う出来ていたと思う。すでに自身の半生と言ってもいい暁での活動も、もはや惰性のように行っていた。しかし、己自身の生き方を鏡写しにしたような存在であるゼノスとの邂逅で、自身の本質は戦いに喜びを見出すところにあることも分かったのだろう。

漆黒のヴィラン

最後に、漆黒のストーリーの中で、プレイヤーキャラはその第八霊災において自身の死が運命づけられていると告げられる。とうとうここに来て、困っている世界を助ける、人々を救う、悪い敵をやっつけるといういわばお助けキャラかつ脇役の生き様から、死の運命から己自身を助ける無二の主役になってしまった。世界を救うのはそこに生きる多くの誰かのためでもあるが、他ならぬ自分のためにも戦わなければならないのだ。この点が漆黒と他の拡張の大きな違いだ。

己の命はかつてオルシュファンに救われた。そして自らの冒険者としての生き様が巡り巡って、自分の命を捨ててまで冒険者を救おうとする人物まで現れる事態になった。これまで背負ってきたものがあり、これから背負うものが自分を救おうとする、そのために命すらなげうつ。諦めて死の運命を受け入れるなどありえないことだ。お気楽な冒険者人生は終わり、もはや退路は絶たれたのだ。それが故、今まで疎んできた『英雄』という呼称を受け入れ、終盤の問いかけにはオルシュファンの最期の言葉そのままに『英雄に悲しい顔は似合わない』 からと応えた。呼ばれるままだった『英雄』を背負うと心に決めたのだ。一つの国を救ってもまだ足りない、数多の国を救ってもまだ足りない、そしてとうとう世界を一つ救うに至り、ようやく『英雄』は『英雄』であることを受け入れた。漆黒のヴィランズ5.0は、プレイヤーキャラがその英雄としての立ち位置を背負うという点で、FF14史上のターニングポイントだろう。

まとめ

以上、漆黒のヴィランズまでのFF14についての思いの丈を書き散らした。本当はアルフィノの成長や、ゼノスとプレイヤーキャラが鏡写しの存在だとか、いろいろまだまだ思うところはあるのだが長いしとっ散らかるので止めた。マジな本音を言うとこんなに盛り上げちゃって後は大丈夫?などと要らぬ心配すらしている。
最後に、漆黒のヴィランズ、そしてそこに至るまでのすべての拡張にありがとうと言いたい。